キムチを売る女

胡蝶の夢

ミルクマン斉藤(映画評論家)

荘子曰く。
「むかし、わたしは夢を見て胡蝶となった。ひらひらと舞う胡蝶となって、心ゆくまで愉しみ、荘周であることなど忘れていた。しかし、ふと目覚めてみればまぎれもなく荘周である。さて、荘周が夢で胡蝶となったのか、胡蝶が夢で荘周となったのか」。  言うまでもない、有名な「胡蝶の夢」の説話だ。『永遠の夢』の冒頭、ミステリアスな屋敷の前に舞うモルフォのような蝶々が現れた時点で、“これもまた胡蝶の夢の物語だろう”と多くの観客が察するのではないだろうか。“これもまた”というのは、フィリップ・K・ディックや押井守以来、すっかりこの哲学…というか世界観が、幻想小説/映画の定番となっているからである。そこではあからさまに蝶を画として写しだされることもしばしばだ(『トンマッコルへようこそ』もそうだった)。分別しがたい現実と幻想の物語……果たしてこの映画は、紛れもなく「胡蝶の夢」のヴァリエーションに他ならない。

しかもここで夜の闇を舞う蝶は二羽。……中華圏の映画演劇好きなら即座に「梁山伯と祝英台」のラストを思い起こすだろう。しかも、学校(あるいは学ぶこと)をモチーフとしていること、クラスメイトどうしの恋愛が幻想譚の発端となることも共通し、いずれ悲恋ロマンス的な展開をみせるだろうことも予想できる。そしてこれもまた正しいのだ。  さらに屋敷。どこか夢まぼろしの雰囲気でぽつんと建っている、といった風情の(いずれスジの家であると判る)広大で立派な屋敷に、溝口健二『雨月物語』のあの幽玄極まる朽木屋敷の面影を感じ取るのも正しい。あとで監督ファン・ギュドク最愛の映画が『雨月』であることを知って深く深く頷いてしまったのであるけれど(笑)、その共通点は「胡蝶の夢」的な幽霊譚であるというだけではない。両者ともに、「物に憑かれたようにはじまる愛の物語」であるということ、そして「動乱と戦の空気に翻弄される人間たちの物語」であるということも似通っているのだ。

つまりこの監督は最初のワンショットで、どんな映画であるかをおおむね観客に提出してしまっているのである。しかもその予想はまったく裏切られない。

だが……そうした事どもを最初のショットで連想した観客さえ(僕がそうだ)、この映画がどういう方向へと展開していくのか、観ているあいだじゅうまったく読めないのである! いや、映画が終わっても「今見たものは何だったのか」という不思議な感覚に戸惑わされることになるだろう。理屈が通っているようで通っていないような、まさに夢と現実のあいだにあるような……(教授の回想のあきらかな矛盾に生徒が真っ向からツッコむのが面白い。わざわざ不定形な夢の論理を脚本に用意しているのである)。

ひらひら舞っていた胡蝶が不意に夢から覚めて自分がスヨンであったと気づき、次にスヨンが教授室で目覚めて今まで自分は胡蝶だったと気づく。……そんな朧な、あちらとこちらのあわいの瞬間が100分あまりに拡大されたかのようでもある。いや、果たして教授(チョン・ジニョン!)は本当に目覚めたのか。はるか大学生時代のスヨン(チョン・ギョンホ)がまだ夢を見つづけているんじゃないのか……。  この曖昧な感覚がおそらく監督の現実感であることは、彼が韓国映画アカデミーのなんと第一期生、1959年生まれだということと大いに関係があるだろう。'59年といえばイ・ミョンセ(『情け容赦無し』)のふたつ下、カン・ウソク(『シルミド』)やキム・ギドク(『受取人不明』)のひとつ上、ホン・サンス(『気まぐれな唇』)のふたつ上、クァク・チェヨン(『猟奇的な彼女』)とは同い年。そしてなにより'59年生まれとは……ずっぽり「386世代」を知る年齢なのである!

本作が描く「幽霊」とは、まさしくその世代が今も引きずるカウンター・カルチャーの想念なのだ。学内の部屋に掲げられた朴正煕の肖像写真、みな直立不動にならねばならぬ国旗降納式。幾条ものサーチライトが走り、対空射撃が花火のように揚がる夜空。そして……ピッピの衝撃的な死。とりわけ彼女が最期に取った行動は、本作と同年にイム・サンス監督('62年生まれ)が『なつかしの庭』を撮ったことと考えあわせるとより意味深いものがある。光州事件を核に、過激に走った学生運動家たちの顛末を描く『なつかしの庭』にも身体に火をつけ校舎から飛び降りる女子学生が登場するが、なにやらあの世代があの時代に何らかの決着をつけようとしはじめているようにも思えてくるではないか。  彼らにとって、あの時代はまだ過去のものではないのだ。ただし、今も彼らの存在を身近に感じ「彼らの死を胸に現実を生きる」と独白するスヨンにみられるように、“386世代の怨念”というよりも“爽やかな怪談”じみた味を残して終わるのが本作の巧さであり、あえていえば美点である。

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