黒い土の少女

現実から遠ざかっている子供

川本三郎(評論家)

 幼い子供は大人に比べて現実と深く関わることはない。子供にとって現実はいつも少し遠くにある。
 たとえば主人公の九歳になるヨンリムという女の子は、自分の住む炭鉱町がさびれてゆく現実を「石炭産業の衰退」「過疎化」といった社会的言葉で理解することは少ない。それよりも彼女にとっては、父親が仕事をなくして困っていること、友達が引越してしまうことといった日常のほうが大事で、いわば現実が少し「無」「からっぽ」と抽象化されている。「労災」「失業」というなまの現実とは違う、より淡い、とらえどころのない、いわば半現実のなかを生きている。
 この映画はヨンリムという女の子をクローズアップでとらえることが少ない。いつも彼女を大きな風景のなかで距離を置いてとらえている。それは女の子自身の現実への距離感に対応している。
 廃鉱に追い込まれてゆく炭鉱の町で生きる少女の物語といえば、われわれはすぐに今村昌平監督の佐賀県の大鶴炭鉱を舞台にした「にあんちゃん」(59年)を思い出すが、あの映画の子供たちが大人と同じ厳しい現実を生きていたのに対し、「黒い土の少女」の子供はあくまでも半現実のなかにいる。
 「にあんちゃん」が散文、リアリズムとすれば、「黒い土の少女」は詩であり、ファンタジーである。
 「にあんちゃん」の子供たちはいつも家族という現実のなかにいたが、この映画のヨンリムは実にしばしば一人になる。一人で白い雪の残るボタ山を歩く。精神障害のある兄が行方不明になると一人で町を探し歩く。一人で町に出て小さな商店でラーメンと父親のための焼酎を万引すると走って逃げ、ピアノ教室の小さな部屋に一人、隠れる。
 そして最後は、父親に猫いらずを飲ませてそのあとどうしたらいいか分らず、一日に数本しかバスがなさそうなバス停に一人ぽつんと立ちつくす。
 この子供は一人でいることによって現実から少し離れる。半現実の世界に入り込む。おかっぱ頭に粗末なセーターとズボンという姿は、私などの世代には昭和三十五年(一九六〇)に出版されて衝撃を与えた土門拳の写真集『筑豊のこどもたち』のボロボロになった炭住に住む幼い姉妹を思い出させるが、あの子供たちに比べても、ヨンリムという子供は現実感が薄い。
 十一歳になるという兄も精神障害があることによって現実から離れている。ヨンリムがこの兄と二人ぽっちで廃家に捨てられた猫を可愛いがる姿は、この兄と妹がもう現実の向うへ行ってしまっているようで胸を打つ。「七歳までは神のうち」という言葉を思い出す。
 二人は現実から離れてゆくことで、向う側の世界へと近づいてゆく。「シバジ」に出演した名女優カン・スヨンが演じる女性の存在も重要で、彼女もまた現実感が乏しい。生活保護の仕事をしている公務員らしいのだが、ヨンリムの家族の現実に積極的に関わろうとしない。彼らから距離を置いている。
 ヨンリムと兄がバス停のところで仲良く遊ぶのを少し離れたところから見ている。ヨンリムが兄をこっそりと施設に預けようとバスに乗る時、そばの席から二人を見つめるが、何か行動に出ることはない。彼女もまた半現実のなかにいるのだし、現実から離れてゆこうとする兄妹に自分はもう何もすることが出来ないと思っているからでもあるだろう。
 黒い服を着ている彼女はギリシア悲劇のコロス(合唱隊)の一人のようにも見える。あるいは、母親のいない兄妹を遠くから見守っている、向うの世界にいる母親のようにも。
 この映画は風景が素晴らしい。寂しい詩情がある。人口が減ってさびれてゆく商店街。めったに列車の通らない線路と踏切り。廃鉱へと追い込まれつつある炭鉱の錆びついた建物。黒々としたボタ山とやがては取り壊されてゆくだろう炭住。
 韓国江原道のテベクという、日本植民地時代、日本によって開発された炭鉱町だという。山岳地帯の江原道はかつて良質な石炭が産出された。そういえば、チェ・ミンシクが炭鉱町の音楽教師を演じた「春が来れば」(04年、リュ・ジャンハ監督)も、江原道のトゲというさびれゆく炭鉱町で撮影されていた。
 確かに、栄えた産業が衰えてゆく姿は寂しいものがある。しかし、一人、あるいは二人ぽっちの子供たちには、その現実から消えてゆく風景のほうが親しみを持てることがある。現代の喧騒から取り残されてしまった風景のほうが、むしろ清潔で、半現実の世界にいる子供たちには身近なものになる。
 最後、ぽつんと一人、バス停で取り残されてしまうヨンリムは、現実社会からは除け者にされているかもしれないが、明らかに、向うの世界へと続く風景に溶けこんでいる。

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