妻の愛人に会う

寝取られ男たちの奇妙なロードムービー

塩田時敏(映画評論家)

 円安ウォン高の傾向で割安感は減ってしまったが、それでも韓国の交通費は安い。とりわけタクシー代のコストパフォーマンスは実にお得だ。まず、この前提があるからこそ、“妻の愛人に会う”ためにタクシーに乗り込むというユニークな設定が生まれる。タクシー代の高い日本じゃ、こういうシチュエーションのものも無くはないが、なかなか発想しにくいだろう。
 むろん韓国だって、ソウルから江原道ナクサンまでとばすとなると決して安くはないわけで、運転手はウハウハ、奇妙なロードムービーの誕生となる。
 ロードムービーではあるが、ベースは“寝取られ男”ものだ。古今東西数多く存在し、時に観念的、時に愛の哲学追究で辛気臭くなりがちだが、このキム・テシク監督のデビュー作はその難を軽やかに乗り越えてみせる。素晴らしい映画感覚の持ち主というしかない。
 ハンコ屋である主人公が彫刻刀で“シーバル”(FUCK!ちくしょう!)と、文字どうり刻印して始まる冒頭も見事だが、つづくショットが上手い。バス停で待つ主人公の前をバスが通過すると、主人公の人影は無く、次のショットは車中の主人公の姿である。しかも前席の客に傍若無人にシートをリクライニングされている(笑)。これだけで主人公のトホホな情けなさを描写する、と同時に、テシク監督自身の非凡なる才能を、最初の映画の最初の映像で、堂々と世界に刻印したのであった。
 あとはもう、魔術的ともいうべき映像のつるべ打ちである。坂道を転がってくる無数のすいかスイカ西瓜!!(韓国では西瓜に何か意味があるのであろうか。刑務所出所時の豆腐のように。)あるいは、主人公の鏡のようなガソリンスタンドのニワトリ=checken、臆病者(ラスト・ショットにも!!)。他にも書き出せばキリがないが、不思議に忘れ難い印象を残すのが、主人公とタクシー運転手の二人が連れションしている時、不意に谷の下から現れたヘリコプターの爆風によって、二人が互いの“返りション”を浴びるショットである。
 そう、これは寝取られ男の物語ではなく、寝取られ男たちのドラマへと拡がってゆくのだ。
 眼には眼、不倫には不倫を、寝取られたら寝取り返せ!?いや、そんな勇ましいもんじゃない。やったかなぁ…やったっけ…!?居酒屋を切り盛りするタクシー運転手の女房との、なりゆきの一夜。そのきっかけが、野菜の端クズに彫った女の顔のイモ判ならぬダイコン判というのが、しみじみなのである。この芋判いや大根判に彫り浮かぶ、男と女の情の機微。説明的な台詞などほとんど無いが、この染み入るような感情、心理のスペクタクルこそが映画であろう。
 なるほど、主題そのものはありがちなものとしても、そこに描かれる新鮮で若々しいアイロニーと、逆に普遍的でやりきれないペーソスは、確かにキム・テシク監督独自の持ち味であり才能だと見えてくるのだ。バンジョーによる印象的なメロディー、時にマンドリンによる鮮烈な旋律も、それを押し上げている事は言うまでもなく、耳について離れない。また、ありえない(笑)中年オヤジの主演(パク・クァンジョン)や、運転手役のチョン・ボソク、とりわけその妻のチョ・ウンジの、生活臭あふるる(それでいてすえた臭いのないポップな)芝居の面白さも特筆もの。それを引き出した演出に一目置こう。
 ところで、昨夏だが関東の某映画祭で、本作が本邦初上映された際、Q&Aにおけるテシク監督の“この映画、韓国でヒットしなかったんですよね”発言を受けてか、みるからに韓流オバチャンらしき女性が、“そりゃそうよね、もっと韓流ドラマを見てベンキョーしなきゃ”ふうな事をのたまわられたのには私ものけぞった(笑)。監督も苦笑いを禁じえなかった事だろう。
そりゃここには、(必要以上に)破乱万丈な展開はないし、感涙にむせぶ物語でもない。そういう韓流ドラマに引きづられた、紅涙を搾り取る装置としてだけの映画もあるにはあるが、それは論外で、そもそも何週にも連作するTVドラマと、100分前後でまとめる映画とは別モノなのだ。単に面白おかしいお話の流れだけではなく、むしろ、その語り尽せぬ物語の底にある、その核の真髄、エッセンスを視覚的に表現する事こそが映画なのである。ベンキョーすべきはオバチャン、あなたです(笑)。
 今回のアートフィルム・ショーケースが、敢えて(!?)“反韓流”と刻印されているのも、そういう事なのだろうか。とはいえ、アートと自称していても油断ならぬ夜郎自大な作品も少なからず。『妻の愛人に会う』のような真の傑作にはなかなか会えるものではない。男という種子のもつ情けなさ、並びに女という卵子の持つしなやかさ。皮肉と哀愁のまったく新しいブレンド、とくと堪能して頂きたい。

 余談になるが、2007年韓国で公開された韓国映画のベスト3を挙げるなら、イ・チャンドン監督『密陽』(シークレット・サンシャイン)、キム・ギドク監督『息』(ブレス)、そしてキム・テシク監督のこの映画である。

 

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