俺たちの明日

普遍的青春映画の秀作『俺たちの明日』

北川れい子(映画評論家)

不在。喪失。失意。いらだち。出口が見えない、見つからない“俺たちの明日”。
ぼんやりとした願望はあっても夢はなく、大人や社会は“俺たち”のことなど無関心。
いや、無関心というよりも、大人や社会は若い“俺たち”にさまざまな不始末のツケを押しつけて知らんぷりしている。
水洗トイレにザーッと流してしまいたくなるような、しょぼくれた日々。
でも、いやだからこそ、誰かとしっかりつながりたい。
 そういえば『俺たちの明日』のジョンデは、兄貴分のギズに何度も仔犬のように体をぶつけ、甘えたり、助けを求めたりしていたが、ことばだけではない確かなぬくもりを、体をぶつけることで実感したかったのに違いない。
 それは握手少年も同じこと。近くに住んでいるらしいこの少年は、ギスやジョンデが通りかかるたびに屈託なく握手を求める。握手とは人とのつながり。スケッチふうな描写にすぎないが、妙に心に残るエピソードである。
 それにしても何の足場も支えもない不安定な日常の中で、少年時代にジョンデの性器に怪我をさせたという負い目を十字架のように背負い、ジョンデに献身するギスの、その我慢強さがやるせない。俺の夢はお前だ、とまでジョンデに言い切るギス。
 その上ギスは、女房に逃げられ腑抜け同然となった実の兄の、まだ幼い息子の世話まで押し付けられている。そしてジョンデの家庭。父はとうに妻子を捨て、母は宗教ベッタリ。
 ギスに甘えるジョンデの気持ちの中に、ギスの負い目を無意識に利用しているところが感じられるのも、それだけジョンデの孤独が強いということで、これも切ない。
 そう、ジョンデにとってギスは、自分の全てを許し、受け入れてくれる存在に近いのだ。
本物の銃がほしいといってギスに甘えるのも、ギスなら受け入れてくれるはずだから。
 ところで『俺たちの明日』で痛感するのは、絶対者の不在とサクリファイス、つまり犠牲である。
神でもいい、父親でもいい、絶対に自分を守り導いてくれる、そして強くて信じられる存在の、不在。
この映画ではその役割を負い目を持つギスが担わされているが、けれども最終的にギスがしたことは犠牲になることだった。愛する人たちを守るために自分を犠牲にすること。
映画の後半、ジョンデの絶対者は、ギスから風俗店のボスへと変わり、ジョンデは金も力もあるボスのもとで働くことになるのだが、やがてこのボスのカラクリに気付き、とんでもない事件を起こす。
この風俗店で働く少女のように小柄な若い娘が、父の形見らしいブカブカの指輪をしていて、しょっ中、紛失しているのも、父なる存在の不在として、巧みなディテールである。
イヤがるジョンデの足の甲に乗ってぎこちなくダンスを踊るのも、幸せだった少女時代の父との思い出の再現に違いない。
小柄な娘にとってこの時ジョンデは、一瞬、強くて頼りになる父親だったのだ。
 もう一つこの映画で強く心に残るのは、主人公たちが往き来する街のスラムのような光景である。すぐ近くには新しい住宅やビルが建っているのに、この一郭だけは半ば廃虚化していて、人通りも少ない。すでに開発が始まっているのか、土が掘り起こされている場所もある。主人公たちの心象風景としても突き刺さる光景だ。
絶対者の不在と喪失感は、20世紀後半以降の青春、そして青春映画の世界的な共通項で、古くはヌーヴェル・ヴァーグの傑作『大人は判ってくれない』(69年。フランソワ・トリュフォー)他、多くの優れた映画が作られてきたが、説明的な描写を廃した散文的手法で、青春の暴走と痛みを描き出すノ・ドンソク監督『俺たちの明日』も、その一本だと確信する。

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