映画『灼熱』の歴史的・社会的背景について

2.映画『灼熱』の背景にあるもの

(1)第1話 1991年

クロアチアの独立運動とセルビア人の不安

 1991年、旧ユーゴスラビアでは、スロベニアとクロアチアの独立をめぐって社会不安が高まっていた。この映画で描かれている第1話の悲劇は、こうした情勢の中で発生した。
 場所は、アドリア海中部地方、海岸から少し入った村での出来事である。1990年5月にクロアチアの大統領に就任したフラーニョ・トゥージュマン博士は、「クロアチア人の国をつくる」というスローガンを掲げて、ユーゴスラビア連邦からの分離・独立を進めていた。
 クロアチア共和国に住むセルビア人たち(クロアチアの人口の約12パーセントを占めていた)は、「クロアチアが独立したら自分たちはどうなってしまうのだろう」という不安を募らせていった。その不安を増幅したのがセルビア共和国の政治指導者によるプロパガンダであった。「クロアチアが独立したら、セルビア人をはじめとした少数民族は虐げられることになる。今こそ立ち上がるときだ!」その結果、1990年9月にセルビア人が多く住む地域が「自治州」を形成すると宣言し、1991年にはクロアチアからの独立を画策した。当然のことながらクロアチア政府はこれを阻止しようとし、各地でクロアチア人とセルビア人の衝突が発生した。

クロアチア人とセルビア人の対立の歴史

 クロアチアの中のセルビア人たちは、国内にまんべんなく住んでいたのではない。集中して住んでいる地域がいくつかあった。旧ユーゴスラビアの地域は、15世紀半ばからオスマントルコの支配下に入り、18世紀以降は、現在のボスニア・ヘルツェゴビナあたりがオスマントルコとオーストリア帝国(ハプスブルグ家)の境界になった。ハプスブルグ王はオスマントルコに対抗するため、境界付近(現在のボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチア国境のクロアチア側)にセルビア人を中心とした軍隊を配置した。セルビア人は勇敢で好戦的であり、貧しい暮らしをしている人が多かったため、ハプスブルグ王の命令に従った。その子孫たちが住んでいた地域の一つが、この映画の舞台になったアドリア海中部地方の内陸部である。
 クロアチア人とセルビア人は、歴史上、何度も対立してきた。直近の対立は、第二次大戦中に起こった。クロアチアは、第二次大戦の早い時期にナチスドイツに占領され、傀儡政権がこの地域を統治していた。クロアチア民族主義者はウスタシャと呼ばれ、ナチスドイツ同様、ユダヤ人やセルビア民族主義者(チェトニク)を虐殺した。「クロアチア人の国をつくる」というスローガンは、第二次大戦中のウスタシャの活動を想起させ、セルビア人たちは、トゥージュマン大統領をはじめとするクロアチアの指導者たちに不信感を持った。

民族とは何か

 クロアチア人とセルビア人は、入り乱れて暮らしていた。クロアチア人だけの村やセルビア人だけの村があったわけではない。通りの両側に建つ家々について、ここはクロアチア人の家、ここはセルビア人の家というのを村の人たちはみんな知っていた。しかし、それであからさまに差別するようなことは1991年の分離独立運動まではなかった。
 誰がクロアチア人で、誰がセルビア人かを人々はどうやって区別していたのだろうか。日本人にはあまりなじみのない「民族」であるが、自分がどの民族であるかは自分がどう認識するかによって決まる。旧ユーゴスラビアでは、10年ごとに国勢調査が行われていたが、その調査項目の中に「あなたは何人ですか」という質問があった。選択肢として、クロアチア人、セルビア人、スロベニア人などが用意され、その他という選択肢もあった。その質問にどう答えるかが何人かを決めたのである。
 もちろん、両親や祖父母の影響は大きかった。小さい頃から「おまえはクロアチア人だ」「おまえはセルビア人だ」と繰り返し聞かされてくると、自ずとそれが自分の民族になる。田舎の村では、お互いのことをよく知っていたので、わざわざ外に向かって宣言しなくても、どの家が何人かはわかっていた。

1991年という時代

 この映画は、クロアチア人男性とセルビア人女性の関係を描いている。1991年のエピソードで描かれている悲劇は、クロアチア人とセルビア人の対立が決定的になる直前に起こった。セルビア人の村とクロアチア人の村の間にセルビア人たちが私設の検問所を置き、双方の往来を制限する行動に出た。このような検問所はクロアチア国内各所に設けられ、小競り合いが頻発した。
 両者の対立が決定的になったのは1991年9月22日、ユーゴスラビア連邦軍がクロアチアの首都ザグレブに対する攻撃を開始したことによる。当時のユーゴ連邦軍は、セルビア人将校によって指導され、事実上の「セルビアの軍隊」になっていた。この連邦軍が、クロアチアからの分離独立を画策していた「クライナ・セルビア人共和国」の側につき、クロアチア共和国軍と戦闘を繰り返した。
 1995年8月3日、クロアチア政府軍が「嵐作戦」を展開し、クロアチア内部のセルビア人占領地域のほとんどを奪還し、戦争は事実上の終わりを告げた。この作戦には、隣国ボスニア・ヘルツェゴビナでの膠着状態を打開しようとしていたアメリカ軍の支援があったと言われている。

(2)第2話 2001年

戦争が終わって

 1995年にセルビア人勢力を一掃し、事実上の領土回復が達成されたあと、クロアチア政府は戦後復興に取り組み始めた。戦闘が行われていた時期、多くの住民は難を逃れて、他の地域に移住していたが、戦闘終結とともに、少しずつ元の家に帰り始めた。クロアチア人たちは、比較的早く帰郷したが、セルビア人たちの帰郷はなかなか進まなかった。それは、元の家に帰ることに不安があったからである。
 戦争によって、クロアチア人とセルビア人の間には深い溝ができた。昨日まで何の問題もなく一緒に暮らしていたのに、民族が違うという理由だけで、いがみ合い、角突き合わせるような状態になった。果たして以前のように平和に暮らせるだろうかという懸念がセルビア人たちの間に広がっていた。
 しかし、セルビア人たちにとっても先祖代々住み慣れた土地であり、戦闘で壊されたとはいえ、自分たちの家がある。先に戻った人たちから状況を聞き、大丈夫だと確信できた人たちから徐々に帰還していった。
 第2話は、セルビア人の母親と娘が元々住んでいた家に帰り、クロアチア人の青年大工に家の修理を依頼する場面である。破壊されたまま手つかずの状態で放置されている家がたくさんあり、まだまだ殺伐とした感じが残る村が舞台になっている。場所は、第1話と同じアドリア海中部地方、海岸から少し入った地域である。

(3)第3話 2011年

時代の閉塞感の中で

 戦争から20年が経過し、クロアチア国内には、ほとんど戦闘のあとが見られなくなった。経済もほぼ戦争前の状態に戻り、主力産業である観光も活況を呈してきた。2007年には兵役が廃止され、軍隊は職業軍人だけで構成されるようになった。住民にとっては、平和が当たり前になっていた。
 平和になると、様々な社会問題が発生する。戦争からの復興はほぼ完了したとはいえ、良好な働く場は限られており、若者にとっていい仕事をみつけるのは至難の業だった。確かに、観光はクロアチアに多くの収入をもたらすが、季節的な仕事であり、安定した給料を得られる職場は限られている。いい仕事に就けないでいる若者たちは、麻薬におぼれ、閉塞感が若者を包んでいた。
 第3話の舞台は、1話、2話同様に、アドリア海中部地方の内陸部である。セルビア人女性とクロアチア人男性が恋に落ち、子供が生まれた。クロアチア人男性の両親は、自分たちの息子がセルビア人女性とつきあうことには反対である。1991年の戦争が残した傷は、20年という時間を経ても癒えていない。海辺の野外ディスコで乱痴気騒ぎを繰り広げる若者たちは、時代の閉塞感に抵抗を試みているのである。

赤く塗られている部分が1991年にセルビア人勢力が宣言した「クライナ・セルビア人共和国」の支配地域である。

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