ダリボル・マタニッチ監督インタビュー

―監督はこの映画に描いたような30年間を経験してこられたわけですが、その経験は映画を作るに当たって、どのような影響を与えましたか?

この映画を撮るきっかけとなったのは、亡くなった祖母がよく口にしていた言葉だった。ガールフレンドの話をすると、祖母はよく“その娘が向こうの人間じゃなきゃいいよ”と言ったものだ。つまり“セルビア人の娘とは付き合うな”ということを意味していた。祖母は私に惜しみなく無償の愛情をそそぎ、救いの手を差し伸べてくれる人だったからこそ、祖母のこの言動に困惑した。私は自分の目で国家、宗教、政治、そして社会の対立を見てきた。その対立は何世代にもわたって深く根付き、長年にわたる多大な悲劇と苦難を生んできた。私は、このような環境であっても、何より愛を一番に考えて生きることは可能なのか、そして、純粋で、もっとも本質的な人間本来の姿に身を投じることは可能なのかということを知りたいと思った。つまり、とても親しい人から私に放たれた冷酷な言葉があったから、この映画を撮りたいと思ったんだ。

―なぜ今、この物語を撮ろうと思ったのですか?

民族紛争の問題はこれからも常に注目されるだろう。5、6年前にこのプロジェクトを始めた頃、ソーシャルメディアは今ほど活発ではなかった。だが今、私たちはソーシャルメディアを通し、バルカン諸国のみならず、世界中で、ほぼ毎日のように憎悪の感情を目にする。その意味で私たちにとって、今の状況はよくないこととも言えるが、映画の話題が拡散しやすいことを考えれば、幸運なことだと思う。憎悪の矛先が他国でなければ、異なる宗教、政治戦略、性的嗜好、自分より高級な車を持つ隣人などへと向かう。自分たちと異なるものを拒絶する理由には事欠かない。なぜなら、愛や慈悲といった崇高な感情を表現するより、負の感情を吐き出すほうが簡単だからだ。この映画は互いに憎しみ合う人々にこそ見てほしい。なぜなら、この映画は世界に対する私の考え方を表しており、その考えに一点の曇りもないからだ。ぜひ、この映画を鏡だと思って自分自身の姿を見てもらいたい。そして、特定の誰かを、もしくは、誰に対しても憎しみの感情を抱くことが本当に幸せなことであるのか問いかけてほしい。

―脚本のために異民族間の不和についてリサーチを行いましたか?それとも脚本のセリフは監督ご自身の経験による個人的な内容が多いのでしょうか?

私の家系で何組かの夫婦は異民族間での婚姻だったが、民族同士の不和が一因で別れてしまった。私の周りでは、そういうことが常に起こっており、時には、起こっていることさえ気づかないこともある。だが、いつも私は、人々がやっていることにイラ立ちを覚える。他人の不幸はふいに、目に飛び込んでくるが、その不幸は、大衆の事なかれ主義や羊のように従順に生き、群れの中で安全を確保し、論争を起こすような主張をせず、日々の生活から逸脱しない人間の弱さから来ているからだ。私は自分を取り巻く世界を見てきて、崇高かつ根源にある人間の本能を深く探り、痛ましい問題に取り組むことが多いように思う。

―本作に登場するイヴァンとイェレナ、ナタシャとアンテ、ルカとマリヤの3組の恋人たちはそれぞれを同じ男女の俳優が演じていますね。俳優たちはどのように異なる3つの物語を演じたのですか?

もちろん、彼らにとっては難しい試練だったが、本当によくやってくれた。ひたむきに、果敢に、そして柔軟な姿勢で臨んでくれたよ。よろこんで挑んでくれた。私たちは同じ顔の俳優を通して3組の異なる恋人たちがひとつの愛を分かち合うというコンセプトを明確にすると同時にキャラクターには微妙な違いを追求した。私は俳優たちとの作業がとても好きだが、難しいのを承知で、彼らには常に一段階上の難題を課すようにしている。だが、いくら困難な課題であっても彼らはいつも、そのプロセスを楽しんでくれているよ。

―本作のどの物語でも同じ俳優が脇役を演じていますね。

この映画の多くの要素は、同じ俳優を使い、同じ場所を舞台とすることに対して、映画のテーマを繰り返し映像で見せることで人の潜在意識のレベルに訴えかけるように作られている。それは、直線ではなく、ループのように繰り返し起こる物語の一環として歴史的瞬間を映し出すためだ。世界は絶えず変化し続けているが、時折、意地悪く過去の亡霊が私たちに不意打ちを食らわせる。しかも、私たちが現代的で進歩的な時代を歩み始めたと思った矢先にかぎって、そういうことが起こるんだ。10年ごとの3つの期間にわたって3組の恋人たちに寄り添う脇役の俳優たちもまた、私たちが1つのテーマを追っているということを分かってくれていた。立ち向かい、歴史を超えようとするひとつの愛の本能がテーマだということをね。

―近年を背景にした映画を撮ることは、ある意味、19世紀を舞台にした映画を撮るより困難だと言われますが、現実的にはどういった問題に直面しましたか?

さほど遠くない過去の30年間を再現するに当たって、問題にぶつかるであろうことは百も承知だった。だが、私たちが選んだロケ地は理想的だった。時間が止まったような場所だったんだ。土地の雰囲気から、はっきり何年とまでは特定できないにしろ、現代にいるといった感覚は持てるものだ。だが、そこは、休眠状態のような雰囲気をたたえており、あたかも過去にいるような印象を与える場所なんだ。廃墟となった工場や荒涼とした牧草地、空き家より、何にもまして人影がないことにショックを受けたが、それ以上に一番、驚いたのは、その場所がいまだ内戦時代の頃と何ら変わらず同じに見えることだった。そして悲しいことに今でも自分と異なるものを受け入れない空気が流れており、人類の悲劇が空虚な見せかけになっていると感じてしまう。私たちはすぐにカメラで撮るにふさわしい場所だと分かったんだ。

―自然の景観は映画にどのような影響をもたらしましたか?

撮影中、私が何度も繰り返し言っていたことは“心から楽しんで”ということだった。自然の環境にカメラを持ち込めたことは、まさしく天からの恵みだと思う。原始的で汚されていない自然のリズムを感じる環境は現代の忙しすぎるペースと比べるとずいぶん違う。愛はどんな障害も越えられるのかと問いながら、私たちは手つかずの自然に深く分け入った。カメラを回しながら自分たちが心地よく感じるペースに気づかされ、キャラクターやイメージに入り込んでいったんだ。とりわけ人々を被写体としてカメラを回した時、大胆、かつ、そのままで美しく安定感のある自然が撮影に与える影響は非常に大きかった。何世紀も続いているすばらしい自然の中で、キャラクターたちの内面の美しさを探求しながら、人物像を深く掘り下げていった。早朝5時に壮大な山に昇る太陽を待ちながら、自分の周りのすべてのこと、そしてすべての人の幸せを考え、前向きな影響を与えるために他に何かできることはないかと自問する時間はたっぷりあった。

―アイルランド人の作家ジェイムズ・ジョイスは“歴史とは悪夢だ。私たちはそこから目覚めようと必死にもがいている。”と言いました。あなたもそのように思いますか?

ジョイスは人生の一時期をクロアチアで過ごした。おそらく、この言葉はクロアチアでの経験が一因としてあったと思う(笑)。私はつねづね映画は単なる娯楽じゃなく、そうなることを望む人が世の中にはいるように強力なツールになると言っている。私たちは理想を高く持って今生きている時代に問わなくてはならない。私は過去のせいであまりにも多くの悲劇が起こっているということに気づき、映画を作る者として、その慣習を打破するために立ち上がることを決意した。本作では、過去からこだまする声が若い恋人たちの足を引っ張るたび、その物語を終わらせ、時代を変えて、次に登場する恋人たちに新たなチャンスを与えている。芸術は過去を豊かにしてきたように、現実も豊かにする。芸術は勇敢かつ大胆でなくてはならず、世俗的で物質的な考え方に対抗すべきだ。結局のところ、国家も政治も物質的な豊かさも存在しない。ただ、高潔な人間の原則が存在するだけだ。その原則の1つが愛なんだ。

―本作はクロアチアをはじめ、バルカン諸国でどのような反響があると思いますか?

自分と異なるものを受け入れることができず、よこしまな考え方に人生を支配されてきた人たちには受け入れがたい映画だろうね。だが、目をそらすべきではない。きちんとこの映画に向き合うこと、それこそ私が願ってやまないことだ。まるで鏡に映し出したような本作の中に自分自身の姿を見出し、負のエネルギーを世界へ放出してムダに過ごしたすべての瞬間を思い出してほしい。それはとても興味深いプロセスだと思う。残念なことに排他的な考え方はなくなっていない。だからこそ、この映画がいやおうなく注目される。だが、私は内心、大多数の人々には人としての優しさが根本にはあると楽観的な気持ちを抱いている。他人を愛することができる人たちには、この映画を愛してもらえると思う。

―最後になりますが、今後はどのような映画を撮る予定ですか?

『灼熱』は「太陽3部作(原題“The Sun Trilogy”)」の第1部なんだ。次のプロジェクト「夜明け(原題「The Dawn」)」では一方で心のきずなの強さを、そして、もう一方では古来、根底にある人間の本能のひとつ、欲深さを問いかけるような内容を考えている。

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