チリ 歴史的時間経過

1970年

サルバドール・アジェンデが社会党と共産党の連合の人民連合の統一候補として大統領に選出される。

1973年

8月:アウグスト・ピノチェト将軍がアジェンデにより陸軍司令官に任命される。
9月:クーデター勃発、大統領官邸が爆撃される。9月11日から1973 年の間の死者、行方不明者は1213人に上る。アジェンデはその中でも初期の犠牲者の一人。
ピノチェトは議会を解散して憲法を停止し、反対勢力を封じ、労働組合指導者を逮捕し、メディアを独占支配した。数千人が国外逃亡を強いられた。400人に上るCIAエキスパートがピノチェトを支援した。政権は、シカゴ大学出身のエコノミストたち(シカゴ・ボーイズ) の密接協力を得て過激な産業民営化政策を敷いた。

1976年

亡命中の元外務大臣で社会党のリーダーであったオルランド・レテリエルが秘密組織「DINA」によって、ワシントンDC中心部で車ごと爆破され秘書とともに殺害される。ピノチェト政権が事件にかかわっているとされている。
※1970 年代から80 年代にかけて国外亡命中の反対派を不法逮捕、拷問、殺害を行ったピノチェトが創設した秘密組織。1974 年憲法擁護派カルロツ・プラッツ元陸軍総司令官夫婦がブエノスアイレスにおいて自動車爆破で死亡した事件もDINA が関与して爆殺した。

1978年

ピノチェトは恩赦法を出して、1973年クーデター以降人権侵害を犯したすべての者に恩赦を与えた。国際的な圧力の中、ピノチェトの信任を問う最初の国民投票が実施される。

1980年

独裁政権を制度化する新憲法制定のための二回目となる国民投票を実施。ピノチェト政権に好意的なイギリスのサッチャー政権は武器禁輸を解除した。

1982年

チリ経済危機
国内総生産は前年比で14.3パーセント下落、失業率は23.7パーセントに跳ね上がる。

1983年

銅山労働者組合によるストライキが勃発。国民各層を巻き込む「国民抗議デー」(プロテスタ)となる。

1986年

左翼主義のマヌエル・ロドリゲス愛国戦線(FPMR)によるピノチェト暗殺未遂。
※1983 年チリ共産党(PCCh)の軍事部門として設立。

1986年

左翼主義のマヌエル・ロドリゲス愛国戦線(FPMR)によるピノチェト暗殺未遂。
※1983 年チリ共産党(PCCh)の軍事部門として設立。

1987年

ピノチェトはいくつかの政党の活動を合法とする。しかし。中道の民主連合リーダーたちは、「独裁政権継続のため以外の目的はない」としてこの提案を拒否。ローマ法王がチリを訪問し、政治的弾圧拷問を非難。

1989年

70歳のベテラン弁護士でキリスト教民主党のパトリシオ・エイルウィンが55%の圧倒的な得票でチリの新しい大統領に選出される。1990年3月11日に就任。ピノチェトは陸軍司令官の座を離れず。

1991年

チリの真実和解委員会がピノチェト政権に関してまとめた報告書を出版。 2279人(後年3172人に訂正)が政治的暴力によって死亡したことが発表される。

1998年

スペインの判事が、軍政期のスペイン人殺害容疑で、病気療養のためイギリスに滞在していたピノチェトの逮捕と身柄引き渡しを英国政府に要請。2000 年、英国政府は健康上の理由でピノチェトのチリ帰国を認めた。

1999年

6月30日:1月15日発行ガーディアン紙のタイムライン欄からの引用記事。
「今日、アメリカ合衆国国務省, CIA, 国防省、法務省、FBIそして国立公文書記録管理局は1973年から1978年にわたるチリ関連の資料を公表資料とした。これらの資料は、ピノチェト政権下そしてピノチェト政権以前のチリにおける政治的暴力および政権の人権侵害、テロリズムに言及するアメリカ合衆国が保持する記録の一部である。」

2000年

9月18日:チリにおけるCIAの活動を文書化したヒンチー・レポート(HINCHEY REPORT)が合衆国国務省により纏められる。

2003年

9月11日:アジェンデ・クーデターから30年目の記念日。ワシントンDCのジョージタウン大学内に設立されているアメリカ国家安全保障アーカイブのピーター・コーンブル(Peter Kornbluh)によりアメリカが公開した情報をまとめたピノチェト・レポート(THE PINOCHET REPORT)が出版される。

2006年

12月11日:チリ、サンティアゴにてピノチェト死亡。享年91歳。
訴追されている数多く人権侵害および戦争犯罪の裁判がイギリスで開廷されるはずであった。

2010年

右派セバスティアン・ピニェラが左派の候補を破って大統領選挙に勝利。
8月5日:コピアポ鉱山落盤事故。チリ共和国アタカマ州コピアポ近郊のサンホセ鉱山にて発生した坑道の崩落事故。崩落により33名の男性鉱山作業員が閉じ込められるも、事故から69日後の現地時間10月13日に全員が救出された。

2012年

4月15日:莫大なる個人資産の存在が不明のままピノチェトの遺言が公開される。

2013年

ピニェラの後任を選出する大統領選挙がおこなわれ、左派ミシェル・バチェレが勝利。
2014年 3月11日就任。

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